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11月2日(水) [矛盾について(その456)]

 「隣の子ならいいのか」、この問いが局面を一気に変えるのでした、「人生における問題」から「人生そのものの問題」へと。
 しかしこれまでの問題はそのままです。わが子の病そのものに打ちひしがれ、「なんでうちの子が」と悔しく思う、これらは何も解決していないのに、そこにもってきて「隣の子ならいいのか」という問いを抱え込んでしまうのです。これまでは嘆き恨んでいただけですが、そこに悲しみがつけ加わると言えばいいでしょうか。あるいは、これまではひたすら外に向かって怒りをぶちまけていたのが、今度は嘆き恨んでいる自分に向かって「そんなことでいいのか」と問いが突きつけられるということです。外にむかっていた苦しみが、内に向かって悲しみに深まる。「こんな世の中」から「こんな自分」へと。
 そのときです、真正の宗教的要求が生まれるのは。
 一方で「なんでうちの子が」と恨みながら、ふと「隣の子ならいいのか」と思う。しかしだからと言って「なんでうちの子が」が消えるわけではありません。このふたつが角付き合ってどうにもなりません。それを金子氏はこう言います、「この人生そのものが問題となったということ、これは問うても答えのない問題である。しかしその問いをもったところに人間があるのであって、人間が宗教的要求をもったところに他の動物と異なるところが出てくる。そうすれば宗教的要求をもったとき、そこに救いがはじまる」と。
 宗教的要求とは答えのない問いを持つことであり、しかし、宗教的要求をもったとき、そこにもう救いがはじまると言うのです。

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