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矛盾について(その457) ブログトップ

11月3日(木) [矛盾について(その457)]

 宗教的要求とは答えのない問いを持つことであるのはいいとしても、宗教的要求をもったとき、そこにもう救いがはじまるのはどういうことでしょう。どうして答えのない問いをもつことが、救いのはじまりなのか。
 さらに金子氏の言うことを聞いてみますと、こうあります、「人生にむかって問いをおこしたというのは、実は問わしめられたのである、まねかれたのである、よばれたのであるといえる。そこで、この宗教的要求の意味を追求して行くところに宗教的な悦びが得られることになる」と。
 「なんでうちの子が」と恨みながら、ふと「隣の子ならいいのか」と思うと言いました。そう思うのは紛れもなく自分です。でも、自分の中からその問いが出てきたというよりも、どこかから聞こえてきたという感じです。ですから、自分で問うたには違いありませんが、実は「問わしめられた」のです。
 金子氏が「まねかれたのである、よばれたのである」と言うのは、『教行信証』の「本願招喚の勅命」(本願が呼ぶ声)を意識しているのは間違いありません。「隣の子ならいいのか」は詰問する声でしょう。「そんなことでいいのか」と問い詰めているのです。でも、その声は本願の声であるということ、これが一番肝心なことです。
 それは「そんなことでいいのか」という声であるとともに、「そのままでいいのだ」という声でもあるのです。「そのまま生きていていいのか」と言いながら、同時に「そのまま生きていていい」と言っているのです。本願の声がこの二通りに聞こえるというところに何ともいえない妙味があります。

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