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11月5日(土) [矛盾について(その459)]

 デクノボーのようにただ突っ立っているだけだとすると、ぼくらは一体何なんだ、と言いたくなります。
 あるテレビ番組を観ていたときのことです。サケが生まれた川を下り、外洋に出てはるかな旅をして成長します。そして、どうして分かるのか、自分の生まれ故郷に戻ってきて、上流まで遡上するのです。
 急流を遡る間には、ちょっとした滝もあります。そこを必死のジャンプで乗り越え、また鋭くとがった岩場をすり抜けなければならない。よく見ればサケの体は傷だらけです。そうしてようやく浅瀬にたどり着き、いよいよ産卵と受精の儀式が行なわれる。
 ぼくが驚いたのは、その儀式の後サケたちがまもなく力尽きたといった感じで命終のときを迎えるということです。たくさんのサケの亡がらが川面を埋めて流されていく。それが多くの動物たちの食べものになるのは言うまでもありません。
 それを見て思うのは、サケの一生というのは、要するに自分の遺伝子を後世に残すことだということです。川を下るのも、外洋をはるかな旅に出るのも、そしてまた故郷の川を必死に遡るのも、結局のところ、自分の子孫を残すため。
 「DNA主体説」ということばを聞いたことがあります。それぞれの個体は己のDNAをなるべく多く残すための道具に過ぎず、本当の主人はDNAだというのです。個体はDNAに操られる哀れな「木偶」、まさにデクノボーです。
 サケに理性があるなら「オレの人生は何なのか、オレは何のために生きているのか」という深刻な疑問を抱くに違いありません。

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