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11月7日(月) [矛盾について(その461)]

 『変わる』と『変える』。
 こう続きます、「『変わる』変化は、いつか変化が起こることを待っています。自然に変わっていくのをじっと待っていたり、誰かのおかげで変わるのを待っていることで、実現する希望もあるでしょう。その希望は心のなかだけで変わるのを待っているという意味で、個人の内面に閉ざされた希望です。それに対して『変える』変化には、自分で変えようとして行動を起こすことが求められます。希望がかなうのをただ待つのではなく、むしろ自分から動き出す事が必要になるのです」。著者が、おのずから「変わる」のを待つのではなく、みずから「変える」ための行動を起こさなければならないと言おうとしているのは明らかです。
 「おのずから」ではなく「みずから」。
 同じ「自」が、一方では「みずから」であり、他方では「おのずから」であるというところに何とも言えない味わいがあります。辞典を見ますと、「自」は、人間の鼻をかたどっており、鼻をさして自分を示すことから「みずから」の意で使われるとあります。それがしかし「おのずから」でもあるというところがおもしろい。親鸞の言う「自然法爾」です。ところが、この「おのずから」がどうも評判がよろしくないのです。森村誠一氏も玄田有史氏も「おのずから」を待っていてはいけない、「みずから」動き出さなければならないと言われます。「おのずから」を待つのは、どうにも意気地がない、もっと言えば卑怯だという感覚があるようです。それではデクノボーではないかという感覚。

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