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11月11日(金) [矛盾について(その465)]

 逆境にあるとき、「それでもいい」と思いながら、しかし「なんとかしよう」と思う。いや、こう言うべきでしょうか。「なんとかしよう」と思えるのは「それでもいい」と思っているからだと。「なんとかしよう」だけですと、そのこころはポキッと折れてしまうことがあります。でも「それでもいい」というバックアップがありますと、何ともならない状況の中でもしなやかに「なんとかしよう」と思い続けることができるのです。
 これが「人生からの逃避」と言えるでしょうか。
 再び『希望のつくり方』という本ですが、おもしろいエピソードがありました。著者の玄田さんが東京の築地本願寺で真宗のお坊さんたちに希望についての話をされたときのことです。話が終わった後、お寺の方から「今日の希望のお話は、そういう考えもあるのか、と聞いていました。実は浄土真宗のお経のなかに『希望』という言葉は出てこないんです」という感想が出たそうです。
 つまり「浄土真宗では、普段の生活のなかで『南無阿弥陀仏』を唱えることが、何より大事とされます。今生きていることをありがたいと思い、念仏を唱えて暮らしていく。そうすれば、ことさらよりよい未来を希望しなくても、お釈迦さまの導きによって、ちゃんと極楽浄土に行くことはできる。だから、あえて未来に希望を持てと説かれることはないのです」と。
 ぼくはこの感想に微妙な違和感をもちました。真宗のお経には「希望」という言葉はないと言われますが、そもそも本願というのは広い意味の希望ではないでしょうか。今生きていることをありがたいと思えば、よりよい未来を希望しないのでしょうか。そんなはずはありません。いま生きているのがありがたいからこそ、よりよい明日に希望をかけると思うのです。

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