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矛盾について(その471) ブログトップ

11月17日(木) [矛盾について(その471)]

 では、これは間違いないと確信していることに真っ向から反論されたとき、どうすればいきり立つことなく、相手の言うことを静かに聞くことができるでしょう。
 これまで繰り返し述べてきたことですが、あることを願うとき、目の前にどんな壁が立ちはだかっても、なお願い続けることができるのは、自分が願っているには違いないのですが、その底で、誰かに願われていると感じるからです。アウシュビッツの囚人たちの中で、あの地獄から生還できた数少ない人たちは、自分が生還を願ったには違いないが、その底で、誰かに生還を願われていると感じていたに違いありません。
 同じことが信じることでも言えるのではないでしょうか。何かを信じるとき、自分が信じているには違いないのですが、その底で、誰かに信じられていると感じることがあります。信には「たより」という意味があることを親鸞から教えられました。どこかから「たより」が届いているのです、「それでいい」と。それがあるから、どんなに厳しい反対論があっても、いきり立つことなく、相手の言うことを静かに聞くことができるのではないでしょうか。それは、自分の信じていることがたとえ誤りであったとしても、それはそれでかまわないと思えるからです。
 よくよく考えてみますと、「願う」と「信じる」は瓜二つです。アウシュビッツの囚人たちは、いつの日か、この地獄から生還できることを「願った」のですが、それは、必ず生還できる日が来ると「信じた」ということに他なりません。そして、どんなに周囲の状況が厳しくても、なお信じ続けることができたのは、それが誰かに「信じられている」と感じたからです。そう感じますと、たとえ信じていることが誤りであるとしても、それはそれでいいと思えるのです。

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