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11月20日(日) [矛盾について(その474)]

 ミネラルウォーターの買いだめのときもそうですが、大文字焼きについても何ともいえない不快な思いが残りました。「どうしてそこまで?」と思うのです。当事者になってみろ、と言われるかもしれません。局外にいるから、のんきに構えていられるんだと。でも、この不快さには考えなければならない問題があるような気がするのです。それは「ひとはともかく、自分だけは」という気持ちのことです。
 「ひとはともかく、自分の飲み水を確保しなくては」。「よそはともかく、京都の大文字を放射能で汚染させてはならぬ」。一昔前の列車の座席取りを思い出します。なりふりかまわず、自分たちの席を確保しようと狂奔する人たち。大急ぎで言っておかなければなりませんが、その人たちの中にはこのぼくも含まれています。ですから、もしぼくが東京に住んでいたら、買いだめをしたかもしれないし、もしぼくが大文字焼きの主催者だったら、陸前高田の松を辞退したかもしれないと思います。
 さて、病気平癒の祈願にも「ひとはともかく、自分だけは」という思いがないでしょうか。ひとの病気が平癒するかどうかはともかく、自分の病気だけは平癒してほしいと祈願しているはずです。一般に現世利益の祈願にはこの「自分だけは」があると思われます。一方、「いまここに生きていること」が祝福されることを祈願するとき、「自分だけは」はありません。自分が「いまここに生きていること」が祝福されるためには、みんなが「いまここに生きていること」が祝福されなければならないからです。

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