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11月21日(月) [矛盾について(その475)]

 ある人から「心の中で念仏をとなえることはできても、声を出すのははずかしくてできないのですが」と問われ、金子氏はこう答えています。「純粋な宗教感情というものがある。その宗教感情というものをそのまま表現したものが、南無阿弥陀仏というものなんでしょう。だからたとえば、見るという事実があって、初めて目があり、光があるといいことがいいうるのであります。説明する時には、光と目があるから見えるのだといいますが。だから南無阿弥陀仏ということは、仏と我とを結びつけるのではなくて、むしろ念仏ということがらの上におがむ我というものと、おがまれる仏というものを感ずるのである、ということをいおうとするのが親鸞聖人の立場なのです」。
 金子氏のように、ものごころがついた頃にはもう念仏していた人にとっては、南無阿弥陀仏がいわば身体化されていますが、成人してから親鸞の思想にふれ念仏に出会った人にとって、「南無阿弥陀仏」と声に出して称えるのはかなりハードルが高いものだということ、ここには考えなければならない大事な問題があるような気がします。
 金子氏自身はそれほどのこととは思われていないようで、とにかく念仏してごらんなさい、繰り返しているうちに自然と口をついて出るようになります、というような言い方をよくされます。これはしかし、子どもには言えても、大人にはなかなかすんなりと受け止めてもらえないのではないでしょうか。親鸞の教えは「本願を信じ念仏をまうさば仏になる」(『歎異抄』)ということですから、念仏をもうせないのは致命的で、ここのところはよくよく考えてみる必要があるのではないでしょうか。

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