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11月23日(水) [矛盾について(その477)]

 純粋な宗教感情の発露はなぜ南無阿弥陀仏でなければいけないのでしょう。
 それが本願だから、でしょうか。阿弥陀仏は「わが名を称えるものを救おう」と誓われたから、でしょうか。
 なるほど、わが名を称えるものを救おうという本願を信じて、念仏もうすのですから、それは南無阿弥陀仏でなければなりません。しかし、そのように言われますと、何か狭く閉じられた理屈だと感じてしまうのはどうしようもありません。
 金子氏が言われるように、純粋な宗教感情の発露であることが根本ですから、もし自分の純粋な宗教感情を表出するのに南無阿弥陀仏よりもっとふさわしいことばがあるなら、それを称えても何の支障もないのではないでしょうか。「いや、南無阿弥陀仏でなければ念仏ではない」とするのはあまりにこころが狭いと言わざるをえません。
 因幡の妙好人、源左は口ぐせのように「ようこそ、ようこそ」と言っていましたが、あれは源左にとって、思わずほとばしり出る宗教感情ではないでしょうか。としますと、源左がたとえ南無阿弥陀仏と称えなくても、「ようこそ、ようこそ」は源左の念仏と言えると思うのです。
 ぼくがまだ幼かった頃、近所のお婆さんが、何かことあるごとに「ありがたい」と言っていましたが、これまたあのお婆さんにとって宗教感情のほとばしりでしょう。ですから「ありがたい」こそあのお婆さんの念仏ではないでしょうか。

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