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11月24日(木) [矛盾について(その478)]

 金子氏が宗教感情ということばで表しているものは何でしょう。
 彼はこういいます、「南無阿弥陀仏という念仏は、受容の精神であります。この心の中に受容しさえすれば、どんなことでも善意に受け取ることができる。その善意に受け取る態度を示してくれているんだと思うんです」と。自分に都合のいいことを受容するのは何の問題もありません。自分に都合の悪いことを受容する、金子氏のことばでは、「どんなことでも善意に受け取る」、これが純粋な宗教感情であり、念仏の精神だと言うのです。確かに、源左の「ようこそ、ようこそ」は、それをよく表わしています。
 しかし、どうしてそんなことができるのでしょう。金子氏が言うように、「人間は本来ものごとを悪意にしか解釈できないのです」。なのに、どうすれば善意に受け取ることができるのか。娘を十六で亡くした方が、その悲しみというものは、いつまでたっても収まるものではないと金子氏に語っていますが、娘の死というものをどのように受容できるものでしょう。人間は自分に都合が悪いことが起こったとき、そこに悪意を感じてしまうものです。娘を十六で亡くした人は、そこに運命の悪意を感じ、「この世には神も仏もいないのか」と思ったに違いありません。このように、娘を亡くした悲しみには、どこに向けていいのか分からない恨みが含まれています。
 それをどうして受容することができるのでしょう、どうすれば善意に受け取ることができるのでしょう。

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