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矛盾について(その481) ブログトップ

11月27日(日) [矛盾について(その481)]

 金子氏は昔読んだ本にこんなことが書いてあったと紹介してくれます。「宗教とは何ぞや」という問いに対して、一つは「それは教会である」、第二は「それは信仰である」、第三には「それは聖典である」という三つの答があるというのです。そして金子氏は、その中で聖典であるという答がもっとも面白いと言います。
 その考え方というのは「どんな問題がでようとも『歎異抄』や『教行信証』が答えてくれるんだ、という立場をとること」です。この考え方からしますと、浄土真宗とは何かといえば、それは本願寺でも、本願を信じることでもなく、『教行信証』である、ということになります。
 確かにこれは宗教というものの特質をよく捉えていると思います。大事なことはすべて聖典の中に説かれているから、どんな問題も聖典が答えてくれるとするのが宗教です。しかし、この立場―真理はもうすでに解き明かされている―は学問の姿勢と根本から背反します。
 学問はこれから真理を解き明かしていこうとするのですから。もちろんこれまでに解き明かされたことをベースとしなければなりませんが、その上でまだ誰も知らないことを解明していく―これが学問の立場です。もうすでに解き明かされたことを繰り返しても何の値打ちもありません。それが学問というものです。
 真理はすでに説かれているなどと言われますと、どうしてそんなことが言えるのかと反発したくなります。それはドグマ、つまり独断だと感じるのが学問です。

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