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11月28日(月) [矛盾について(その482)]

 「真理はすべてここにある」などと言われますと、それはドグマ、独断だと感じ、そこから宗教にはついていけないという拒否反応が起こります。
 これはごく自然で、正常な反応でしょう。自分の眼と耳で確認しないうちは、うかつに信用してはならない、これはぼくらが生活していく上での基本原則とも言えるものです。ところが、その一方で、この世に新しいことなど何もない、もうすでに大事なことはすべて聖典に説かれてある、という考え方にも深く頷かざるをえないものがあります。
 宗教と学問、この関係をどう捉えればいいのでしょう。
 親鸞の主著『教行信証』を読んでみますと、そのほとんどが経典(浄土三部経をはじめ、法華経、華厳経、涅槃経など)からの引用、そして過去の高僧たち(龍樹、天親、曇鸞、道綽、善導、源信、法然など)の論・釈からの引用で埋められています。これは初めて読むものを大いに戸惑わせ、そしてしばしば躓きの石となります。
 普通の感覚では、書物というものは著者の新しい考え方が述べられているはずです。ところがこの書物ときたら、大半が引用で、ところどころに親鸞自身の文章が挟まっていますが、それとても、著者独自の新しい発想を打ち出すというより、わたしは経・論・釈をこのように読みましたという性質のものです。
 ですから、例えばカントの『純粋理性批判』を読むような姿勢でこの書物と向き合いますと、最初から躓いてしまうのです。

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