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矛盾について(その484) ブログトップ

11月30日(水) [矛盾について(その484)]

 「知る真理」と「感じる真理」。こう言ってもいいでしょう。「であること」についての真理と「があること」についての真理。
 「知る」と「感じる」の区別、そしてそれに対応するものとして、「であること」と「があること」の区別については、これまで何度も述べてきました。「ぼくは何ものであるか」は知ることですが、「ぼくがいまここに生きていること」は、「こんなぼくが生きていてすみません」と感じ、同時に「こんなぼくが生きていてありがとう」と感じることです。
 「感じる真理」ということばに違和感が残るかもしれません。真理は知るものであって、感じるものではないというのが普通の了解でしょう。そこから「すべての真理がすでに説かれている」と言われることへの反発が生まれてくると思われます。真理が知るものであるとしますと、「もうすでに」ということはありえないからです。でも「感じる真理」があるのであれば、それは「これから」新たに掴み取らなければならないものではなく、「もうすでに」あるものです。「知る」のは「これから」でも、「感じる」のは「もうすでに」です。「もうすでに」感じていることに、ふと気づくのです。
 では「感じる真理」はほんとうにあるのか。
 それを感じるひとには紛れもなくあります。でも感じないひとには、どこにもありません。親鸞は「感じる真理」に出あい、その悦びをこう表現しました、「遇ひがたくしていま遇ふことをえたり、聞きがたくしてすでに聞くことをえたり」と。そして聞くことができたことを一冊の聖典にまとめ、「ここに真理がある」と人々に指し示したのが『教行信証』という書物ではないでしょうか。

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