SSブログ
矛盾について(その485) ブログトップ

12月1日(木) [矛盾について(その485)]

 宗教的問いがあるところ、すでにその答えがあるという不思議について。
 宗教的問いというのは金子氏のことばでは「この煩悩の人生がなんとかならんか」であり、ぼくのことばでは「こんな自分がこのまま生きていていいのか」です。さて「この煩悩の人生がなんとかならんか」という問いは、問いであると同時に答えであると金子氏は言います。ぼくのことばに直しますと、「このまま生きていていいのか」という問いが、問いでありながら同時に「そのまま生きていていい」という答えであるということです。問いは答えを求めているはずなのに、問いがそのまま答えであるとはどういうことか。
 「わたしは何ものであるか?」と「わたしはこのまま生きていていいのか?」を比較してみましょう。
 どちらも問いであるからには、ぼくらが問うているに違いありません。でも、何かが違う。「わたしは何ものであるか?」は紛れもなく自分の中から出てきた問いです。ところが、「わたしはこのまま生きていていいのか?」は、自分が問うているようでありながら、実はどこかから問われています。「わたしは生きていていいのか?」と問うよりも前に「おまえは生きていていいのか?」という声がするのです。その声にハッとして「わたしはほんとうに生きていていいのか?」と自分に向き直る。もし「おまえは生きていていいのか?」の声がしなければ、「わたしは生きていていいのか?」などと問うことはありません。生きているのは当たり前であり、いいも悪いもないと思っています。

矛盾について(その485) ブログトップ