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12月10日(土) [矛盾について(その494)]

 浄土の教えにおいて「往相と還相」ほど分かりにくいものはありません。浄土へ往く(往相)のはいいとしても、娑婆に還る(還相)というのが分からない。金子氏は、これを宗教(念仏)と生活というように捉えることはできないかと言います。「往相とはそういう立場(どんな人でもそのままですくわれる、そのままで安心できる立場)をみいだすことであり、還相とは、そういう立場をみいだしたからにはこころをうごかすこともなく、おのおのの生活をありのままにしていくようになることであります」と。
 生活の中で「そのまま生きていていいのか」と問いかけられ、そしてそれに「そのまま生きていていい」と応えてもらう。これが往相です。『歎異抄』では「摂取不捨の利益にあづけしめたまふ」と言われ、『教行信証』では「信楽開発の時刻の極促」と言い表されています。また、因幡の源左なら「ようこそ、ようこそ」と言う瞬間です。では、この時を境に世界は一変するのか。一面では、何も変わりません。これまで通り欲を起こし、つまらぬことに腹を立て、愚痴を言う生活が続きます。でも、何かが違う。少しだけ空気が軽くなったような気がするのです。これが還相です。
 金子氏はそれを次のように説明してくれます、「私たちが念仏するのは、これによってわれわれの生活がきよめられていくのであります。われわれの生活は、どうすることもできない欲の心があり、腹立つ心があり、愚痴の心がある。それをどうすることもできない。けれども、念仏によってそれがきよめられる。…欲を起こしておっても、念仏申す身になると、これはどうも少し度が過ぎはしないかと反省も出るでしょう。腹立つ心において念仏申しますれば、また腹を立てて相すまなかったというような心も出てくる」と。

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