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12月17日(土) [矛盾について(その501)]

 仏教が若い人に受け入れられにくい一番の原因は諦めを説くところにあるようです。
 でも仏教の諦めはこのイメージと似て非なるものです。それは「他力本願」の場合とよく似ています。他力本願も「ひとまかせ」で自分では何もしないというイメージを持たれます。何かズルイというイメージ。でも親鸞の他力本願はこのイメージと似て非なるものです。では何が違うか。
 こころの内面を言っても他の人には見えませんから水掛け論になってしまいます。誰にも見えることで言わなければなりません。それは、受け入れがたい現実への身の処し方です。諦めも他力本願も、それがほんものであるならば、受け入れがたい現実から決して眼をそらさず、それに立ち向かっていく姿です。
 病気に戻りましょう。
 先ほど、こう言いました、病気と闘うのではなく、うまくつき合うと。それは決して耐え難い現実の前にうなだれて、生きる意欲を失ってしまうことではありません。反対です。病気の現実をしっかり見つめ、いまできることを冷静に判断して着実にやっていくのです。場合によってはきつい治療法を受け入れることもあるでしょう。
 さあそうしますと、それは病気と闘うのとどこが違うのかと言われるかもしれません。言い方が違うだけで、やっていることは一緒じゃないかと。いえ、違うのです。病気という現実を「それもまたよし」と受け入れているかどうかが違うのです。「それもまたよし」と諦めた上で、何とかしようと思うのと、「そんなはずじゃない」と諦められず、何とかしようと思うのと。
 しかし、受け入れがたい現実をどうして「それもまたよし」と受け入れることができるのか。それは受け入れられがたい自分が受け入れてもらっていると感じるからではないでしょうか。

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