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12月18日(日) [矛盾について(その502)]

 前にこう言いました、われら現代人にとって、浄土にまつわる二つの疑問が躓きの石となると。ひとつは、浄土は『死んでから』往くところであるということ、ふたつは、『西方十万億土のかなた』にあるということです。そこでは後者の問題を取り上げましたが、ここでは前者の「あの世」ということについて考えてみたいと思います。
 「西方十万億土のかなた」については、日本の向こうに中国があり、中国の向こうに印度があるというのと同じではないと述べました。それでは同一次元になってしまうと。同様に、「あの世」についてもこう言えるのではないでしょうか。冬が終われば春がくる、あるいは、夜が明けて朝がくるというのとは同じではないと。それではこの世とあの世が同一次元になってしまいます。
 前に「あした」について考えたことがあります。そこで得られたのは、ぼくらはどう頑張っても「あした」に行くことはできないということでした。「きょう」が終われば「あした」が来るじゃないかと言われますが、来るのは「次のきょう」であって、決して「あした」ではありません。「ついたち」という日の次には「ふつか」という日が来ますが、どれだけ待っても「あした」という日は来ません。
 こんなことを考えたこともありました、動物には「あした」はないのではないかと。そして、悲しみは「あした」を思い煩うことから生まれてきますが、彼らには「あした」がないから悲しみというものもないのではないかと言いました。さらにはこうも言えるのではないでしょうか、喜びは「あした」を夢見ることから生まれてきますが、彼らには「あした」がないから喜びというものもないのではないかと。
 動物にも次の日はもちろんあります。でも「あした」はない。としますと、「あした」というのは「きょう」の次の日ではなく、「きょう」という日を「そこにおいて見る場所」(金子氏)ではないでしょうか。

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