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12月21日(水) [矛盾について(その505)]

 『教行信証』のはじめに「それ真実の教をあらはさば、すなはち大無量寿経これなり」とあり、そして「如来の本願をとくを経の宗致とす。すなはち仏の名号をもて経の体とするなり」とあります。浄土の真実の教えは無量寿経に説かれており、その無量寿経の本質(宗)は弥陀の本願で、その本願が形となったもの(体)が南無阿弥陀仏の名号だと言うのです。浄土の教えというのは、本願を信じ、そして本願の体である名号を称えること、つまり念仏することに尽きるということです。
 本願を信じ念仏する―これが浄土の教えです。本願を信じるのが教えの「宗」であり、念仏するのがその「体」であると親鸞は言いますが、念仏するということについては、これまで何度も話題になってきましたので、ここでは本願を信じるということについて考えてみたいと思います。
 本願とは「生と死とにまどい、愛とにくしみとになやむ人間の身にかけられたまことのねがい」であり、「いっさいのあらそいをこえ、いっさいの差別をこえて一つの世界にあらしめたいというおおいなる仏のねがい」だと金子氏は言います。願いといいますと、当然ぼくらの願いだと思います。ところが本願は仏の願いです。仏がぼくらにかけてくださる願い。親が子にかける願いならよく分かります。しかし、仏がわれらにかける願いとは何か、ここにまず躓きの石があります。
 前に憲法第9条の「恒久の平和」について考えたことがありますが、もう一度その例を取り上げてみましょう。恒久の平和を願うのは「われら日本国民」です。われらが恒久の平和を願って、戦争を放棄し、戦力を持たないと誓ったのです。

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