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12月24日(土) [矛盾について(その508)]

 前に、動物には「あした」はない、彼らは起きて、食って、寝るだけで、それにどんな意味があるかと考えないからだ、と述べました。彼らも起きて、食って、寝ることに苦しみを感じることはあるでしょう。食い物がなくて腹がへってしょうがないのは苦しいに違いありません。でも彼らは「あした」もまた食い物が手に入らなかったらどうしようと思い煩うことはありません。こんなに苦しい日々を生きていくのにどんな意味があるのだろうと悩むことはありません。「あした」がないからです。「あした」がないということは、「きょう」を生きる意味を問うための視座を持たないということです。
 「あした」がないということは、ある意味でとても羨ましいことです。ぼくは辛い日々を送っていた一時期、夕暮れ時にねぐらに向かう鳥の群れを見上げては「彼らはいいなあ」とため息をついたものです。彼らは「あした」のことを思い煩うことも、「生きる意味」に悩むこともないのですから。ぼくらは「あした」という視座を持つことによって「生きる意味」に悩むという宿命を背負うことになりました。これは「いずれ死ぬのに、なぜ生きる」という厄介な問いに苦しめられることです。
 ところで、「いずれ死ぬのに、なぜ生きる」という問いは一見もっともですが、よく考えてみますと、いずれ死ぬからこそ「なぜ生きる」という問いが生まれるのです。もし、いつまでも死なないのでしたら、「なぜ生きる」なんて問うことはないでしょう。ぼくらは、いずれ死ぬことをいつもこころのどこかで感じています。いつも死を意識しているというのではありません。普段はほとんど忘れていますが、でもこころの片隅で感じているはずです。そして、死ぬことを感じているということは、死んだ後のことを思っていることに他なりません。「あの世」です。

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