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矛盾について(その518) ブログトップ

1月3日(火) [矛盾について(その518)]

 久しぶりに会った古い友人に「やあ、どうしてる?」と聞かれて、「いま親鸞を読んでいる」と言いますと、若い頃のぼくを知る彼らは、たいがい驚いた顔をします。「へえー、そりゃまたどうして?」というわけです。その人たちにとって浄土の教えなんていうのは、博物館に展示されているもの、もうご用済みなのです。しかし本当にそうか。
 金子氏はこう言います、「時代にも悩みがある。その悩みというものがどうしても浄土を求めずにおれん、そういうふうな悩みであるであろうか。もしそうでないとすれば、浄土の教えというものはご用済みになったような形になっていて、なんと申しても、これで浄土教の役割はすんだのであるといわなければならんようであります。しかし、私は、よくよく考えてみれば、今日こそ浄土の機縁の熟しているときであると、こう申してみたいのであります」と。
 時代の悪とか時代の悩みと言い、それが浄土の教えを必要としているかと問います。もし必要としていないなら博物館行きだと。
 ここで忘れてならないのは、時代の悪とは取りも直さずわれら一人ひとりの悪だということです。われらの悪とは別に時代の悪というものがあるわけではないということ。時代の悪として戦争をイメージするようなとき、戦争が悪であって自分は悪くないというように思いがちです。自分たちは戦争の犠牲者なのだ、戦争が憎いと。それ自体が間違っているわけではありません。戦争が憎いのは当然です。でも、どうして戦争が憎いかともう一歩踏み込みますと、われら自身の悪が否応なく眼前に突きつけられるのです。

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