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1月5日(木) [矛盾について(その520)]

 昨年は大震災と大津波、そして原発災害の年でした。これもまた時代の悩みと言っていいでしょう。
 「大変でしたね」という言葉がどれだけかけられたことでしょう。何もかも濁流に流され、田畑が泥水に浸かり、そしてかけがえのない家族を失った。また、あたり一面放射能で汚染され、遠くに避難せざるを得なくなった。これがどんなに辛いことかは言うまでもありません。ぼくなんかが言うのもおこがましい。
 でも、何が辛いと言って、例えば津波の渦に巻き込まれたとき、しっかりつないでいたはずの手を思わず放してしまった。そして目の前で母親が濁流に飲まれていったことほど辛いことはないでしょう。「あのとき、何で手を放してしまったのか」という思いに胸が張り裂けそうになる。
 時代の悩みとはぼくら一人ひとりの悩みなのだと言いました。この一人ひとりの胸に突き刺さってくる悩みがなければ、浄土の教えなど何の意味ももちません。必要か必要でないかなど考えるまでもなく、あっという間に姿を消してしまうでしょう。悩みがあるから浄土の教えが存在しているのは疑いのないところですが、問題はその悩みにとって浄土の教えが不可欠なのかどうかということです。なくてもいいのではないか、いや、むしろそれが悩みのほんとうの解決の妨げになっているのではないか、そのあたりのことを考えてみたいのです。

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