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矛盾について(その526) ブログトップ

1月11日(水) [矛盾について(その526)]

 「土下座しろ」には、相手は悪、自分は善というはっきりした線引きがあります。そこに引っかかるのです。相手の手は血にまみれているのに対して、自分の手は全く汚れていないのでしょうか。自分は原発という悪に全く無縁であると言い切れるのでしょうか。 
 これまでもしばしば取り上げてきましたが、ここでもう一度1960年代の若者たちの反乱、全共闘運動とか学園紛争と呼ばれるあの動きを想起したいと思います。その中心にいた人たちはニューレフトと呼ばれましたが、それまでのレフトと比べてどこが新しかったのでしょうか。
 「自己否定」という言葉にその鍵があります。
 彼らは時代の悪(その象徴としてベトナム戦争がありました)に立ち向かおうとしました。その点ではオールドレフトと変わりありません。ただ、悪に立ち向かおうとしている自分自身の手も汚れているという自覚があった。
 彼らの多くは何ごともなければ大学を卒業して官庁や一流企業に就職し、世の中を支えていくことになるはずです。世のエリートになろうとして激しい受験競争を勝ち抜いてきた人たちです。そのことに思い至るとき、自分自身が時代の悪にしっかり染まっていると考えざるを得ません。としますと、時代の悪を撃つことは、自分自身を撃つことでもあります。
 こうして「自己否定」が叫ばれることになります。

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