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1月12日(木) [矛盾について(その527)]

 「自己否定」ということ。
 それまでのレフトは虐げられた者の立場から虐げる者を撃つというスタンスでした。自分たちは世から否定されているのですから、自らを否定するなんてことは思いもよらないことです。しかし1960年代の若者たちは、時代の悪に悩むと同時に、その悪にどっぷり浸っている自分にも悩まなければなりませんでした。
 そこに彼らの新しさがあったのですが、さてしかしどうすれば自己を否定できるのか。立身出世を求める自己を否定し、世間一般の幸せを求める自己を否定し、ちょっとでも贅沢な生活をしたいと思う自己を否定して、しかもそれを狭い集団の中で相互監視の下に徹底的に追及する。
 その果ては凄惨な粛清・リンチでした。
 全く汚れていない手で時代の悪を撃つという姿勢から、自分の手も汚れていることを自覚しながら時代の悪に立ち向かうという姿勢へと転換したところに彼らの新しさがあったのですが、自分の手の汚れを自分で拭い去ることができると思いこんだところに、後のオウムと同質の錯誤があったと言わなければなりません。
 オウムに迷い込んだ若者たちも自分の内なる穢れを自分で消去できると思い違いした人たちでしょう。外なる悪に対するときと同じ手つきで内なる悪に対しようとするとき、そこにはリンチやサリンといった狂気が待ち受けているようです。

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