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1月14日(土) [矛盾について(その529)]

 『歎異抄』第4章です。
 「慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏になりて、大慈大悲心をもて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとをし、不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏まうすのみぞ、すゑとをりたる大慈悲心にてさふらふべきと云々。」
 (慈悲というものに聖道門と浄土門の区別があります。聖道門の慈悲とは、人を憐れみ、悲しみ、育むことです。しかし、思うように助け遂げるのは本当に難しい。一方、浄土門の慈悲とは、念仏して、早く仏になって、仏の大慈悲心で、思うように生きとし生けるものを救うことです。この世で、どれほど可哀そうだ、気の毒だと思っても、思うように助けることは不可能ですから、この慈悲は貫けません。だから、念仏することだけが一貫した大慈悲心だと、おっしゃったことでした。)
 ぼくは長い間ここをうまく受け止めることができませんでした。目の前に困っている人がいたら「あはれみ、かなしみ、はぐくむ」のが当然ではないか、どうして「念仏まうすのみぞ、すゑとをりたる大慈悲心」なのか、と引っかかってきたのです。でも、ようやく親鸞の言いたいことが分かってきたような気がします。
 聖道の慈悲というのは、金子氏の言葉で言いますと「行動の原理」でしょう。それに対して浄土の慈悲とは「生活の智慧」なのです。ぼくらは、目の前に困っている人がいたら「あはれみ、かなしみ、はぐくむ」行動を取るでしょう。でも、それだけでは終らないのです。日々の生活が待っています。たづきを立てなければならない。「おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし」というのはそういうことでしょう。

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