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矛盾について(その532) ブログトップ

1月17日(火) [矛盾について(その532)]

 生活は行動が成り立つ前提条件。
 マルクスの上部構造と下部構造ということばを思い出します。ぼくらは世の中の動向をみるとき、政治の動きや思想の変化に注目しますが、人々の暮らしこそ歴史を一番底のところで支えているのだとマルクスは教えてくれました。「存在が意識を規定する」のは間違いないでしょう。生活が行動を規定するのです。ところが行動の方が威張っている。
 思想が上部構造であるということは、浄土の教えは思想ではないということです。思想ということばはあまりにも漠然としていて、その範囲を限定するのは困難ですが、一応「行動の指針となるもの」としますと、浄土の教えは思想の範疇に入りません。浄土の教えは「行動の指針となるもの」ではなく「生活に寄り添うもの」です。
 思想は相互にその優劣を激しく争いあっていますが、浄土の教えはそれに加わることはありません。左翼思想と右翼思想がぶつかり合って口角泡を飛ばしていても、浄土の教えはどちらかに加担して争おうとはしません。庶民の生活の何ともならない悩みにそっと寄り添おうとするのです。
 仏教に「宿業」という考えがあり、それが浄土の教えの中で独特の意味合いをもつようになります。『歎異抄』第13章に「よきこころのをこるも、宿善のもよほすゆゑなり。悪事のおもはれせらるるも、悪業のはからふゆゑなり。故聖人のおほせには、卯毛羊毛のさきにゐるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずといふことなしとしるべしとさふらひき」とあります。われらのなすことは、善きことも悪きことも、すべて過去の因縁によるものだというのです。

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