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1月20日(金) [矛盾について(その535)]

 宿業の感覚。
 ぼくは気がついたらもうすでにこの世に存在していたのです。そしてぼくが日本人であることも、21世紀という時代に生きていることも「こころにまかせたること」ではありません。たまたまそうなっていたのです。さらには、ぼくがこのぼくであることもまた「こころにまかせたること」ではありません。こんなぼくじゃいやだ、もっと別のぼくでありたいと思っても詮無いことです。
 この宿業の感覚には悲しみの色がついています。
 不自由の感覚に伴う不快感と比べてみましょう。これも「こころにまかせたること」ではないことから生まれますから、宿業の感覚と同じように見えます。でも、ぼくらに不自由を感じさせる原因はぼくらの外にありますから、不快感の元になっているものを取り除こうと行動に立ち上がるのです。ところが宿業の感覚は「ぼくがこのぼくであること」から生まれてくるのですから、これはもう「どうしようもないこと」です。その原因を取り除くことはできる相談ではありません。ここから悲しみの色がにじみ出てくるのです。
 さてしかし「その人生生活の悲しみにおいて、それを介してはじめて大悲の本願をいただくことができる。そこにふかい喜びがある」(金子氏)のです。


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