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1月21日(土) [矛盾について(その536)]

 阿弥陀仏は実在するか?曽我量深氏はこんなふうに言います。
 「仏をたのめば仏たすけたまうとは南無阿弥陀仏である。それ以外に仏があるかないかは、真宗学では無用である。浄土真宗の宗学はそんなものではない。キリスト教の神学では、神の実在をいわねばならぬ。浄土真宗の宗学では、弥陀如来の実在はどうでもよい」。 
 「弥陀如来の実在はどうでもよい」とはまた思い切った言い方です。浄土真宗の僧がそんなことを言っていいのか、と他人事ながら心配になるほどです。曽我量深氏にして言えることばでしょう。
 「仏をたのめば仏たすけたまう」と言うのだから、やはり仏の存在が気になるではないかと思うのがぼくら常識人です。仏が実在すると思うからこそ仏をたのむのではないのか、と。ところが曽我氏はこう言うのです。
 「浄土真宗は阿弥陀如来にわれわれが証明してもらうので、われわれが阿弥陀如来を証明するのではない」。
 これまた意表をつくことばですが、どういうことでしょう、「歴史的現実」ということばを手がかりに考えていきたいと思います。弥陀の本願は歴史的現実であるということですが、どういうことを言っているのか、改めて考えてみたいと思います。
 「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて」(『歎異抄』第1章)と聞いて、それをただの神話と思うか、そこに歴史的現実を感じるかの違いは何でしょう。

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