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1月23日(月) [矛盾について(その538)]

 その中に生きていると感じるかどうか。感じられたら歴史的現実で、感じられなかったら神話。
 法蔵菩薩が一切衆生を苦しみから救いたいと願い、五劫思惟の結果「わが名字をききて、みなことごとく踊躍せんもの、わがくにに来生せしめん。しからずばわれ作仏せじ」という誓いを立てられ、そして十劫の昔に阿弥陀仏となられたという物語も、天孫降臨と同じように、いや、それ以上に荒唐無稽なお話と言うこともできるでしょう。それが歴史の中で実際に起こった出来事だと言う人はいないでしょう。
 でも、この弥陀の誓願(「帰っておいで」の声)を歴史的現実としてまざまざと感じたらどうでしょう。その中に生きていると感じるとしたら。そのとき、ぼくがその歴史的現実を証明する必要があるでしょうか。むしろ、ぼくが生きていることがその歴史的現実によって証明されているのではないでしょうか。
 しかし誰かが「きみは弥陀の誓願の中に生きていると言うが、ぼくには弥陀の誓願というものにちっともリアリティが感じられないんだが」と応じたら、それにどう答えればいいのでしょう。先ほどぼくは天孫降臨にリアリティを感じないと言いましたが、同じように弥陀の誓願を神話としか思えないと言う人にどう答えればいいのか。
 どうもこうも答えようがありません。親鸞ではありませんが、「詮ずるところ愚身の信心にをきては、かくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなり」としか言いようがありません。

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