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2月12日(日) [矛盾について(その558)]

 内村鑑三の議論は石原都知事が「日本人のアイデンティティは我欲」と言ったのと全く重なります。そして石原都知事が「この津波をうまく利用して我欲を一回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」と言ったように、内村鑑三は先の文に続いてこう言っているのです。
 「然るに此の天災が臨みました。私共は其の犠牲と成りし無辜幾万の為に泣きます。然れども彼等は国民全体の罪を贖わん為に死んだのであります。…払いし代償は莫大でありました。然し挽回した者は国民の良心であります。之に由りて旧き日本に於て旧き道徳が復たび重んぜられるに至りました。新日本の建設は茲に始まらんとして居ます。私は帝都の荒廃を目撃しながら涙の内に日本国万歳を唱えます。」
 何を言っているのかと思います。怒りがふつふつと湧き上がってきます。この怒りはどこからくるのでしょう。日本人が「軽佻浮薄」で、東京が「義を慕う者の居るに堪えない所」かどうかを争おうとは思いません。多分そうだったのでしょう。内村という人はそれを心から憂える高潔の士であったのでしょう。でも、ぼくは思うのです、「あなたがそう言うとき、あなたはどこに居るのか」と。
 石原都知事が「我欲を一回洗い落とす必要がある」と言うとき、彼自身は洗い落とされる側にはいません。ではどこにいるのか。洗い落とされる様子を俯瞰する場所です。内村鑑三も「国民全体の罪を贖」う側にはいません。「新日本の建設は茲に始まらんとして」いるのを俯瞰する位置にいます。内村鑑三は「其の犠牲と成りし無辜幾万の為に泣きます」といいますし、石原都知事も「被災者の方々はかわいそうですよ」と言います。でも彼らが犠牲者の側にいないのははっきりしています。

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