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2月13日(月) [矛盾について(その559)]

 内村鑑三も石原都知事も天罰が下るのを俯瞰しているのです。
 これまでぼくは歴史の感覚ということについて思いをめぐらせてきました。法蔵菩薩の五劫思惟の願は、それを歴史の中で感じなければ、ただのおとぎ話になってしまうということです。そして五劫思惟の願を歴史の中で感じるには、自分が宿業の歴史の中にあることを感じることが必要だと述べてきました。宿業の歴史をわが身に感じてはじめて本願の歴史を感じることができるのだと。
そのこととこの天罰論はどう関係するのか、これを考えたい。
 震災を天罰と思うのは一つの歴史観と言ってもいいでしょう。時代の趨勢(軽佻浮薄、我欲)に対して、天が(神が、仏が)怒りを表したのが震災だというのですから、個々人を超えた力、個々人を規定する大いなる歴史を感じているのです。一方、宿業の自覚も、個々人を超えて、一人ひとりを規定している大きな力を感じることですから、これも歴史の感覚であることは疑いありません。その意味では天罰も宿業も似た感覚です。でも、両者をその具体的な姿でみますと、はっきりした違いが見えてきます。
 震災を天罰だと言うとき、その人は天罰の外にいます。自分の受けた災難について、天罰が下ったと思うこともあるでしょう。でもそんな場合、その思いは心の中の独り言として秘められていて、言論として出てくることはありません。言論として表出される場合は、石原都知事や内村鑑三の例に見ましたように、自分は歴史の外にあって、それを俯瞰しているのです。それに対して宿業を感じるときは、まさにこのわが身が宿業の流れの中でもがき苦しんでいます。

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