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2月14日(火) [矛盾について(その560)]

 歴史の内と外。
 ヘーゲルの歴史哲学を思い起こします(ヘーゲル哲学は本質的に歴史哲学です)。ぼくは若かったある時期、ヘーゲルの歴史哲学に大きな魅力を感じていたことがありました。彼の『世界史の哲学』はベルリン大学の講義録であることから、その内容が溌剌としていて、しかも分かりやすいのです。残念なことに何が書いてあったのかおおかた忘れてしまいましたが、彼がナポレオンという歴史上の人物(ヘーゲルの同時代人です)に世界精神の姿を見ていたことは記憶に残っています。彼は歴史というものを「理性」あるいは「世界精神」の壮大なドラマと見るのです。ぼくはこうした大スペクタクルを眼前にして血湧き肉踊る思いがしたのです。
 ところが、その講義の聴衆の中にいたキルケゴールが、ヘーゲルについてこんなふうに評しています、「ヘーゲルは世界史の哲学という壮大な宮殿を建てたが、彼自身は宮殿の前の犬小屋に住んでいる」と。ヘーゲルは世界史を俯瞰して、それを世界精神の壮大なドラマと見たのですが、彼自身はその内にいないのではないかという疑問。彼は外から歴史を見ているだけではないか。ぼくが内村鑑三に「関東大震災は天罰だと言うあなたはどこにいるのか」と問いかけたのと同じです。
 歴史を見ると歴史を感じる。
 震災を天罰と思うのは歴史の外から歴史を見ていますが、宿業を自覚するのは歴史の内にあって歴史を感じています。外から歴史を見るというのは、神の視座にあって歴史を裁いているのです。それに対して、内にあって歴史を感じるのは、自分が歴史に裁かれているということです。天罰論は閻魔大王の立場から出てきますが、宿業の自覚は閻魔さまに裁かれる罪悪生死の凡夫の立場から生まれます。

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