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2月19日(日) [矛盾について(その565)]

 宿業とは、何か分からない大きな力に操られているという感覚です。善いことをしようとしているのに悪いことをしてしまい、反対に、悪いことをしてしまったと思ったら善いことであったりと、もう何が何やらわけが分からない。これが宿業の感覚です。「卯毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずといふことなし」(『歎異抄』第13章)です。あるいは「わがこころのよくてころさぬにはあらず」(同)、ただそういう宿業の中にあるから殺さぬだけのことです。
 この感覚は個人の主観的世界のことではありません、客観的世界のことです。「前世の縁」ということばがありますが、どこか個人的な縁という響きがあります。でも、縁というのは個人を縦につなぐばかりでなく、人々を横につなぐものでもあります。こうして縦横につながれた関係は、もう個人の世界にとどまることはできません、歴史の世界に開かれているのです。宿業を感じるというのは、宿業の歴史の中にいると感じることです。
 『歎異抄』の第9章は何度読んでもしみじみとした味わいがあります。唯円が親鸞にこんなふうに問いかけます、「このところ念仏していましても、喜びを感じることがありません。またいつ死んでもいいと思うこともできません。どうしたものでしょう」と。唯円としては、わたしの信心のどこかに間違いがあるのだろうか、という重い気持ちで、思い切って問いただしたのだろうと思いますが、親鸞の答えは意外なものでした。「あなたもそうですか、いや、わたしもそう思っているのですよ」。

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