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2月20日(月) [矛盾について(その566)]

「帰っておいで」の声が聞こえてきて、喜びが湧き上がり、思わず「はい、ただいま」と言う、これが信心であり、念仏です。そこには突き上げるような喜びがあり、それがあればもういつ死んでもいいと思えるはずです。
ところが実際には、突き上げるような喜びもなければ、いつ死んでもいいとも思えない。一体どうしたことか、どこに問題があるのか。こうしたこころの内面にまで立ち入った話を聞くことができるのは親鸞の肉声が記録されている『歎異抄』ならではのことでしょう。
で、親鸞は「わたしもそうなのです」と言った後、こう続けるのです、「よくよく案じみれば、天におどり、地におどるほどに、よろこぶべきことをよろこばぬにて、いよいよ往生は一定とおもひたまふべきなり」と。
「えっ」と思います。意表をつかれます。
「よくよく案じみれば」われら罪悪生死の凡夫は、この宿業の歴史の中を常に没し常に流転してきたのです。われらはいつ死んでもいいと思えるほど上等にはこしらえられていないのです。それを憐れんで法蔵菩薩が五劫思惟の願を立ててくださったのですから、「いよいよ往生は一定とおもひたまふべき」です。
『歎異抄』では、もう一箇所で「よくよく案じみれば」という言い回しに出会います。後序の「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」です。「よくよく案ずれば」宿業の歴史の中にあると感じると同時に五劫思惟の願の中にある自分を感じる。この経験は「不可称不可説不可思議」(『歎異抄』第10章)と言うしかありません。

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