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2月27日(月) [矛盾について(その573)]

 「帰っておいで」という声がどこかから聞こえて、「ああ、帰るところがある」と安心できる、これが宗教性だと言いましたが、この声が聞こえるのは、こころのままに振る舞っているようで、実はどうしようもなく大きい力に操られ、何ともならない自分を持てあましているようなときではないでしょうか。
 どうしようもなく大きな力と言っているのは、煩悩の力、宿業の力のことです。
 どんなに偉そうなことを言っていても、所詮ぼくらは煩悩に操られ、宿業のなすがままになっているという感覚、これがぼくらのこころの一番深いところを流れています。「ぼくらはみんなおしなべて悪人だ」という感覚と言った方が手っ取り早いでしょうか。「われは善、かれは悪」ではなく、「われもかれもおしなべて悪」という感覚です。これを感じるところに、ふと「帰っておいで」の声が聞こえる、これが宗教性でしょう。
 苦難を黙々と耐えることができるのは、日本人の底にある宗教性の力ではないかと言いましたが、どうして宗教性が苦難を耐えさせてくれるのか。
 まず言えるのは、「いつでも帰るところがある」と思えるところには、こころのゆとりがあるということです。突発的にやってくる苦しみに突発的に反応するのではなく、それを一旦受け止めて、じっと見つめるゆとりがあるのではないでしょうか。前にも引き合いに出したことがありますが、河合隼雄さんのことばをつかわせてもらいますと、「煩悩を抱きしめる」ゆとりです。

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