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3月4日(日) [矛盾について(その579)]

 「世界内に不意に姿をあらわす」とか「人間は最初は何ものでもない」というサルトルの言い回しは、あの頃のぼくの気持ちにピッタリくるものでした。しかし、考えてみますと、ぼくらがこの世界に姿をあらわしたとき、ぼくらはもうすでに何ものかです。
 ぼくは女ではなく男であり、コーカソイドではなくモンゴロイドであり、そして中国人ではなく日本人であり、等々。これらはどうしようもないものとしてぼくにまとわりついています。なるほど何ものになるかはぼく自身が決めていくのですが、でもそれはこうした条件のもとにおいてであって、これらをチャラにすることはできません。
 これらはぼくがその下に生まれた「定め」でしょう。
 藤沢周平が描く江戸期の庶民に比べますと、現代人は「みずからがつくったところのものになる」度合いが大きいとは言えるでしょう。ですから「定め」などと言われると大時代めいて自由な今にはそぐわないように思います。「もっと自由に!もっと自由を!」というのが現代人です。
 ところがその一方で藤沢周平の小説世界を面白いと思う。持って生まれた「定め」にがんじがらめになっている男女の姿にほろりとし、そして読んだ後、何か清々しい気持ちになるのです。主人公たちが、どうしようもない「定め」を受け入れ、その中にささやかな喜びを見出していくのが清々しいのです。
 サルトルの「自由」と藤沢周平の「定め」。前者は昂然と前を見つめるのに対して、後者には寂しくうなだれるというイメージがあります。しかし…

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