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3月8日(木) [矛盾について(その583)]

 本屋さんで『親鸞』という大きな赤い文字が目に飛び込んできました。またあやしげな類いの本かなとよく見ますと『吉本隆明が語る親鸞』というタイトルです。昔読んだ『最後の親鸞』から吉本隆明が親鸞に強い関心を持っていることは知っていましたが、どんなことを語っているのか興味を引かれ読んでみました。
 ぼくらの世代(団塊の世代)にとって、吉本隆明というのは特別な存在です。カリスマでした。彼の『共同幻想論』や「マチウ書試論」、あるいは「転向論」といった評論を、その特徴ある文体に苦労しながらも、目からウロコが落ちる思いで読んだものです。
 さて、この本を読んで彼が親鸞の何にひかれているのか、少し分かった気がしました。面白かった一節を、ちょっと長いですが、引いてみます。
 「(戦時中のこと)学生のときで、ぼくは米沢市にいたのですが、学校のリーダーが、1時間の昼休みに、お弁当を食べたあとにどうせ時間があまるんだから、あまった時間は近所にある上杉神社に戦勝祈願にいこうじゃないかと提案したのです。…提案されると、『悪いことじゃないよなあ』と思うんだけど、なんとなく浮かない感じなんです。その浮かない感じをどうやって解消すればいいのでしょうか。ぼくなんかがそれを解消したのは、どんな言い方かといいますと、『それは確かに善いことだから賛成なんだけど、もっとやるべき大切なことがあるんじゃないか』という言い方で異議をとなえたのです。でもそんな異議はもちろんかき消されてしまいます。『何を言ってるんだ、文句を言わずに戦勝祈願にいけばいいじゃないか、悪いことじゃないんだから』ということで、自分の声はかき消されてしまいました。そうすると、自分の心のなかではどう面白くないわけです。だけど、確かに悪いことではないよなということで、嫌々ながらみんなのあとにくっついて、戦勝祈願にいったわけです。ぼくは戦中派というやつだから、そういうふうにして戦争を肯定し、戦争に協力して、戦争に勝たなきゃいけないと思ってきたんです。
 戦争が終ってつくづく考えたわけです。ああいう時に心のなかで少しでも『嫌』というか、『悪いことじゃないんだけど、なにか浮かない感じだな』ということがあったら、浮かない感じがするということを必ず言うべきであった。それが戦争が終った時に反省した、いちばんのことなんです。そういうことは戦後、自分の考え方をつくりあげていく時にいちばんひっかかってきて、それだけは譲らんよということで、守ろうと思ってきたことです。…いまでも、たとえば緑を守るとか善いことばっかり言う奴がいっぱいいるでしょう。それに対してやっぱり浮かない感じがする時には『浮かないよ、それは』と言うべきであると思います。ずっとそういうことをぼくは言ってきました。『ここが浮かないとこだよ』とぼくは言って、憎まれてきました。しかしそれは、ぼくの戦争の時の体験から来ているんです。親鸞という人がなぜ現代でも生きているかといえば、そういうことに対してきっぱりと言っているからです。」

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