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3月10日(土) [矛盾について(その585)]

 小林多喜二の『党生活者』です。
 「私」の党生活はどこか病んでいます。まず小説全体から「我々のような仕事をしているもの」つまり革命のためにいのちを捧げているものは特別な存在だという意識がプンプン匂ってきます。前衛意識というのでしょうか、何か鼻持ちならないものがあります。我々がプロレタリアート諸君を解放してやるのだという救世主意識と言ってもいい。こんなものを振り回されたら、周りの者はたまったものではありません。
 何よりも「私」と笠原という女性との不自然な関係、いわゆる「ハウスキーパー」問題です。笠原はこんなふうに不満を漏らします、「あんたと一緒になってから一度も夜うちにいたことも、一度も散歩に出てくれたこともない!」と。笠原は昼間タイピストとしての仕事に出て行き、「私」は夜になると党活動のために出かけていくからです。「私」は「そんな馬鹿なこと」を言う笠原を「些細なことでさわいだり、又逆に直ぐ不貞腐れ」るようでは、「とうてい我々のような仕事をやって行くことは出来ない」と断じます。
 それで笠原と離れるのなら筋が通っているのですが、「私」は周囲の眼をあざむくためにも、彼女の稼ぎに依存するためにも、これまで通りの夫婦関係を維持しようとします。彼女を「利用」するのです。笠原はこんなふうに不貞腐れます、「あなたは偉い人だから、私のような馬鹿が犠牲になるのは当り前だ!」と。「私」はそれに対してこう反論します、「私は組織の一メンバーであり、組織を守り、我々の仕事、それはプロレタリアートの解放の仕事であるが、それを飽くまでも行っていくように義務づけられている」と。「私」が一番犠牲になっているのだというのです。
 「なにか浮かない感じ」がしないでしょうか。

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