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3月11日(日) [矛盾について(その586)]

 革命運動はそれ自体が革命でなければなりません。「これから」実現するべき革命が「ただいま」実現していなければならないということです。「ただいま」は「これから」のためにあるのはもちろんですが、「ただいま」が「これから」の手段であるだけではダメだということ。「ただいま」は「ただいま」として輝いていなければなりません。
 「私」の「ただいま」は「これから」実現されるべきプロレタリアートの解放のために何がしかの役に立っているのかもしれませんが、笠原の「ただいま」は、ただ「私」の「ただいま」を支えるために利用されているにすぎません。「私」の「ただいま」を支えるという形で間接的にプロレタリアートの解放に役立っていると言えなくはありませんが、それはあくまで「私」の意識の上でのことです。
 笠原と「私」の関係は全く解放されていません。二人の関係を解放しないで、プロレタリアートを解放できるのでしょうか。二人の関係なんてプロレタリアートの解放という大義の前には些細な問題だと言うのでしょうか。もしそうであるとすれば、ぼくはそのような解放は願い下げにしたいと思います。
 戻ります。「悪いことじゃないんだけど、なにか浮かない感じ」について。
 吉本隆明が親鸞にひかれるのは、親鸞は「なにか浮かない」と感じるものをはっきり言葉にしたということです。「悪人でも往生できるんだから、まして、いいことをしている人が往生できるのは当たり前じゃないか」という常識的なもの言いに「なにか浮かない感じ」がして、そうだろうか、逆じゃないかと感じ、「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」と言った。そこに吉本がほれたのです。

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