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3月12日(月) [矛盾について(その587)]

 「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という親鸞のことば。
 世の人が「悪人でさえ救われるのだから、善人はなおさらだ」と言うことに「なにか浮かない」ものを感じるのは、そんなふうに言う人が高みに立っているからです。「あんな悪人が救われるのなら、オレは大丈夫だ」という匂いがプンプンするのです。
 親鸞は「あんな悪人」と思うことはできない。自分も所詮同じような悪人だと感じるからです。その感覚からしますと、「あんな素晴らしい人でも放っておかれないなら、自分のようなどうしようもない人間が捨てておかれるはずがない」と言う方がピッタリくる。
 『歎異抄』という本には、親鸞が「なにか浮かない」と感じたであろうことがたくさん出てきます。
 思いつくまま上げてみますと、「もの(人のことです)をあはれみ、かなしみ、はぐくむなり」という一段があります。慈悲の問題です。いつの世もそうですが、親鸞の時代も、天災、人災がひきもきらず起こりました。支配者たちの権力闘争、日照りや冷害による飢饉、そして地震。
 身の回りに飢え死にしかかっている人たちが溢れていた時代ですが、そんな人たちを見ますと、「ものをあはれみ、かなしみ、はぐく」まざるをえないでしょう。でも、そうすることが善いことだからしなくちゃという人たちを見ますと、そこに「なにか浮かない」ものを感じないでしょうか。だから親鸞はこう言うのです、「念仏まうすのみぞ、すえとをりたる大慈悲心にてさふらふ」と。
 吉本が親鸞にシンパシーを感じるのはこういうところです。

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