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3月18日(日) [矛盾について(その593)]

 マルクス主義も仏教思想も舶来の世界思想です。われわれは昔も今も舶来の大思想に憧れ。それを自分のものにしようと踏ん張ってきました。奈良・平安期においても、明治以後の近代においても、相手は世界帝国であるのに対して、こちらは極東の遅れた島国、対等につきあえる関係ではありません。ですから何とかして相手の持てるよきものを吸収して、力をつけていかねばならない。
 漱石ではありませんが、こうした外発性の開化を短期間にやろうとしますと、どうしても「上皮を滑っていき、また滑るまいと思って踏ん張るために神経衰弱になるとすれば、どうも日本人は気の毒と言わんか憐れと言わんか」ということになります。内発的なものではありませんから、どこまでも借り物でしかない。
 借り物の服はしっくりと身体に馴染みません。それが一番はっきり現われるのが知識層と「ごくふつうの人たち」との間の意識のズレです。知識層(貞慶や明恵です)は一応借り物の服(仏教思想です)を着こなしていますが、「ごくふつうの人たち」がそんな服を着られたものではありません。借り物でしかない世界思想を自分のものとしたと思っている知識層と、そんなものはどこまでも異物にすぎない「ごくふつうの人たち」とは別世界に住むしかありません。
 法然や親鸞はそのことに気づいたのではないでしょうか。これまでの仏教はどこまでも借り物でしかないではないか、それは「ごくふつうの人たち」だけでなく、自分自身にとってもしっくり馴染まないと感じたのではないでしょうか。としますと、「ごくふつうの人たち」とともに、自分たちの身体にしっくり馴染む服を内発的に作っていくしかありません。法然や親鸞がやろうとしたのは、そういうことだったと思うのです。

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