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3月21日(水) [矛盾について(その596)]

 戻ります。「往相と還相」でした。
 改めて簡単に説明をしておきますと、ぼくらがこの娑婆世界から浄土へ向かう姿が往相で、いったん浄土へ行ったあと、もう一度娑婆に帰ってくる姿が還相です。自分が救われていく姿が往相、他の人たちを救う姿が還相というわけです。さてしかし、浄土は死後の世界であるとしますと、生きているうちは往相しかないことになります。還相はずっとあと、死んでからのこと。
 しかし親鸞が描くのは「今生は穢土、来生に浄土」という単純な構図ではありません。親鸞の思想の新しさは、弥陀の本願(これをぼく流に言い替えますと「帰っておいで」という声です)が聞こえたそのときに直ちに救いにあづかるというところにあります。「念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき、すなはち(そのとき)摂取不捨の利益にあづけしめたまふ」(『歎異抄』)のです。それを「正定聚(しょうじょうじゅ)となる」と表現します。ここに親鸞の思想の核心があります。
 それを吉本隆明はこう捉えます、「生きていることと、死ぬことの中間にある場所のことを『正定聚』の位と言っていると思います」。もはや娑婆ではないが、しかしいまだ浄土でもないところにいるのが正定聚であると。そしてここから彼の往相・還相論が次のように展開します。「〈還相廻向〉ということを、信仰の問題ではなく、還ってくる見方ということで考えてみますと、『正定聚』の位のところから、現実の世界を見たり、人間を見たりすると、違う見え方をしますよ、ということを言っているんだと思います」。

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