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3月28日(水) [矛盾について(その603)]

 これは誰でも感じることでしょうが、『教行信証』より『歎異抄』の方がよほど心に沁みます。『教行信証』は親鸞自身が書いたものであり、浄土真宗の根本聖典とされるのに対して、『歎異抄』は弟子の唯円が書いたもので、明治になって日の目を見るまで「無宿善の機においては、左右なくこれを許すべからず」とされて蔵の中に眠ってきたことを考えますと、何だか不思議な気もします。
 両者を分ける最大のポイントは、言うまでもないことですが、『教行信証』が漢文で書かれているのに対して、『歎異抄』は和文だということです。
 親鸞が『教行信証』において経論釈を自己流に読み下しているということは、文字のうしろから聞こえてくる声に耳を澄ましているのだと述べてきました。そうすることで漢文を本来の日本文に直そうとしているのです。しかし、あくまで書きことばの枠から出ていません、どこまでも文語なのです。
 それに対して『歎異抄』に記録されている親鸞のことばは弟子に向かって語っていることば、つまり口語です。その中に漢語が混ざるのは何ともなりませんが、しかし基本的に和語(かな)で書かれている、ここに『歎異抄』のありがたみがあります。
 例えば、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」ということば。
 これは「むつかしい語はひとつもなく平易に書いてある。平易に書いてあればあるほど意味が深い。この一句でご開山聖人は永遠に生きていられる」(曽我量深)のですが、「むつかしい語はひとつもなく平易に書いてある」のは、言うまでもなく弟子に向かって語っていることばだからです。

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