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3月30日(金) [矛盾について(その605)]

 「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、親鸞一人がためなりけり」は、親鸞が弟子に向かって語りかけたことばです。話しことばです。
 これが書きことばではなく話しことばであることの一番のポイントは、こう親鸞が語っているところにおいて、このことばは真理であるということです。その場を離れますと、このことばは真理性を失うかもしれません。「親鸞一人がため」を書きことばとして読みますと、「そうだろうか?」という疑問が生じます。五劫思惟の願はあらゆる衆生のためにあるはずですから、親鸞一人のためというのはおかしいからです。
 書きことばはどこへ持って行っても通用します。いや、こう言うべきでしょう、どこでも誰にでも通用するように表されたことばが書きことばだと。それに対して、話しことばは、それが話された状況においては通用しますが、そこを離れるともう通用しなくなる可能性があるのです。
 高校教師時代によく経験したことですが、あるクラスで語ったことばが生徒のこころにしっかり届いたと感じて、それを別のクラスで語りますと全然ダメだったということがあります。話しことばは「生(なま)もの」です、すぐ腐ってしまう。語り手と聞き手、そしてそれを取り巻く雰囲気との間に微妙なバランスが保たれたときに語りは生きるのです。
 ここでしかし疑問が出されるでしょう、「親鸞一人がため」は親鸞自身が弟子に語りかけたことばであるとしても、それが『歎異抄』に記録され、700年後に曽我氏が「この一句でご開山聖人は永遠に生きていられる」とまで言うということは、それが特定の状況に局限されているわけではないということではないかと。

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