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4月1日(日) [矛盾について(その607)]

 吉本隆明の『最後の親鸞』をもう一度引っぱり出してきました。最初読んだときはあまりピンとこなかったのでしょう、内容がほとんど頭に残っていません。ただ「最後の親鸞」というタイトルが印象的で、さすが吉本隆明だなと妙に感心したのを覚えています。
 さて彼は本の中でこんなふうに言っています、「〈わたし〉たちが宗教を信じないのは、宗教的なもののなかに、相対的な存在にすぎないじぶんに眼をつぶったまま絶対へ跳び越してゆく自己欺瞞をみてしまうからである」と。そんな姿勢をとりつつ、しかし親鸞に惹かれるものを感じる。これに共感しながら『最後の親鸞』を再読しました。
 「眼をつぶったまま絶対へ跳び越してゆく」のを拒否するとき、浄土の教えとは何でしょうか。「最後の」親鸞というのは、その問いをとことんまで突きつめたとき、どんな世界が広がるのか見てみようという趣旨に違いありません。
 吉本はこう言います、「念仏をとなえれば、浄土へゆけるという考え方は、親鸞にとって最終的には否定さるべきものであった」。一見とんでもない言辞にみえます。浄土真宗のお坊さんがこれを見たら腰を抜かすのではないでしょうか。「本願を信じ念仏をまうさば仏になる」(『歎異抄』第12章)、これが浄土の教えのアルファでありオメガです。これが「否定さるべきもの」だとしますと、もう何も残らないのではないか。
 一体、吉本は何を言おうとしているのでしょうか。

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