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4月2日(月) [矛盾について(その608)]

 「念仏をとなえれば、浄土へゆけるという考え方は、親鸞にとって最終的には否定さるべきものであった」。吉本はこのことばで何を言おうとしているのでしょう。
 もう少し彼のことばを引きますと、先の文に続いて、その理由をこう述べます、「なぜならばここには、個々人の『はからい』の微かな匂いがたちこめているからである」。こういうことです。「念仏をとなえれば、浄土へゆける」をひっくり返しますと、「浄土へゆきたければ、念仏をとなえなさい」となります。こうしますと、確かに「はからい」つまり算段の匂いがたちこめています。微かではなく濃厚にたちこめています。
 ものごとを因果の眼で見るときには、そこにはおのずから「はからい」が働いているのではないでしょうか。これはかくかくの原因で起こると知るのは、これを起こすにはかくかくのことをすればいいことを確かめるためです。あるいは逆に、これを回避するにはかくかくのことを遠ざければよい。いずれにせよ、そこには「はからい」、すなわち算段があります。因果と「はからい」は切り離せないように思えます。
 ところで、釈迦も因果の法を説いています。縁起です。原始仏典にはこうあります、「これがあるときにこれがある、これが生起するからこれが生起する」、あるいは「これが無いときにこれが無い、これが消滅するからこれが消滅する」。「これ」に煩悩と苦しみを代入してみますと、煩悩があるから、苦しみがあるとなります。それを裏返しますと、苦しみを回避しようとすれば、煩悩から遠ざかればいいということになります。だとしますと、釈迦の説く縁起もひとつの「はからい」、つまり算段ということになるのでしょうか。
 そうではないと言わなければなりません。

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