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矛盾について(その611) ブログトップ

4月5日(木) [矛盾について(その611)]

 親鸞が夥しい数の和讃を残していることはよく知られています。和讃とは7・5調の仏教の「うた」ですが、親鸞は晩年になってから(関東から京に戻ってからということです)、7・5を一句としてそれを四句連ねる形の和讃を作り続け、それが『浄土和讃』、『高僧和讃』、『正像末和讃』のいわゆる三帖和讃にまとめられています。そして蓮如によって、これらの和讃が正信偈とともに朝夕のお勤めの中で読誦されることになり、浄土真宗の門徒たちに親しまれるようになっていきました。
 さて、吉本隆明は親鸞の和讃について、こう言います、「親鸞の和讃の性格は、ひとことで〈非詩〉的であるといってよい」と。日本の伝統的な「うた」は「あはれ」や「はかなさ」を基調にしていますが、親鸞の「うた」にはそのような要素が見られないということです。確かに親鸞の和讃からそのような情感を期待しますと、完全に肩透かしを食らわされます。そこにこそ親鸞らしさがあるのだと吉本は言うのですが、どういうことでしょう。
 「あはれ」とか「はかなさ」は、仏教の「無常」に連なる情感でしょう。『平家物語』の冒頭、「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰のことわりをあらわす」に漂う情感です。仏教が日本人の感性に溶け込んでいったのは、この「無常」の思想が「あはれ」や「はかなさ」という感覚として受け入れられたからに違いありません。鐘の声や花の色にも「あはれ」や「はかなさ」を感じ、それを仏教的な感性として大事にする伝統は今も色濃く生きています。

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