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4月7日(土) [矛盾について(その613)]

 親鸞の和讃には「あはれ」や「はかなさ」の要素がないということ。
 親鸞が己の理論的根拠を『無量寿経』においていることは言うまでもありません。『教行信証』に「それ真実の教をあらはさば、すなはち大無量寿経これなり」と言っています。しかし彼はこの経典に説かれる「浄土の荘厳」と「穢土の醜悪」のコントラストを重視している気配は一向に見えません。
 一般の浄土信仰は、戦乱や地震・冷害などの天災に見舞われ、餓死した人たちの死体があたりに転がっているという穢土の現実に軸足がおかれています。「現世の〈はかなさ〉や〈あはれ〉や〈嫌悪〉」がベースとなっている一般の浄土思想と親鸞の感覚との間には大きな隔たりがあると言わなければなりません。
 「あはれ」や「はかなさ」あるいは「厭離穢土」の感覚とはどのようなものでしょうか。こう問うた方がいいでしょう、穢土を「あはれ」に思い、「はかなさ」を感じ、「厭う」というとき、穢れを自分の身に感じているかどうか、と。自分に穢れを感じるとき、それを「厭う」と言うでしょうか。
 自分の中の穢れは、もちろんできれば避けたいとは思うでしょうが、それが現に自分の身にある以上、引き受けるしかありません。厭うとか厭わないとかの話ではありません。厭わしいのは、自分の外にある穢れでしょう。つまり厭離穢土というとき、自分の外にある穢れを眺めているのです。

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