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4月8日(日) [矛盾について(その614)]

 厭離穢土というとき、自分の外にある穢れを眺めていますが、親鸞はと言いますと、穢れを自分の身に感じた人です。人はともかく己に穢れを感じる。としますと、それを「あはれ」とか「厭わしい」と詠嘆している場合ではありません。どれほど辛くともそれが自分の中にあることを認め、そして懺悔する。これが親鸞です。
 『教行信証』の中で、突然、こんな声が響きます、「かなしきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚のかずにいることをよろこばず、真証の証にちかづくことをたのしまず。はづべしいたむべし」。
 また、『涅槃経』から長い引用があり、父王を殺害した阿闍世の物語を引いています。それは阿闍世の悲嘆から始まります。「われいま身心あにいたまざることをえんや。わが父つみなきに、よこさまに逆害を加す」と。「地獄は一定すみかぞかし」という述懐です。
 そのとき大臣の耆婆(ぎば)が阿闍世王にこう説きます、「ふたつの白法あり、よく衆生をたすく。一には慙、二には愧なり。…慙は人にはづ、愧は天にはづ。これを慙愧となづく。無慙無愧はなづけて人とせず、なづけて畜生とす」と。
 どうして『涅槃経』から長い引用をしたのか。ぼくには親鸞がここで自分を阿闍世に重ねて慙愧しているように読めるのです。吉本もこう言います、「たれも『小慈小悲もなけれども、名利に人師をこのむなり』というように、この世界の相対性(穢れと読みかえましょう)を、自己の相対性におきかえて唱ったものはなかった。いいかえれば『大経』における現世の重さを、おなじ重さで個人のうえにのしかかる重荷だとする認識に到達したものはなかったのである」と。

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