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4月11日(水) [矛盾について(その617)]

 『歎異抄』第5章に「親鸞は、父母の孝養のためとて、一返にても念仏まうしたること、いまださふらはず」とありますが、これも「非僧非俗」のコンテクストの中で読むことができます。
 亡き人のために供養するのは僧の大事な勤めとされてきましたし、今もそう考えられています。葬式や法事には僧が招かれ、読経をしてもらい念仏をしてもらいます。ここにも「してあげる-してもらう」という関係が貫かれています。親鸞はこの関係を拒否したのです。
 続く第6章に「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」とあるのも同じことです。師匠と弟子は「してあげる-してもらう」の関係ですから、それを親鸞ははっきり否定したのです。
 このように、「非僧非俗」の思想とは「してあげる-してもらう」の関係そのものを拒否する思想だということが明らかになりましたが、では親鸞はなぜそれを拒否したのでしょうか。
 吉本隆明は彼らしく「釣り上げる」というおもしろい言い回しでこう言います。
 「すべての〈釣り上げる〉者は、〈僧〉であるとともに〈俗〉であるにすぎない。だが、じぶん(親鸞のことです)はちがう。〈非僧〉になることが〈非俗〉であるという存在の仕方しか可能ではないし、そこに浄土教義の〈真〉がなければならない」と。
 吉本は「〈衆生〉にたいする〈教化〉、〈救済〉、〈同化〉といったやくざな概念は徹底的に放棄しなければならない」とも言っていますから、「釣り上げる」とは衆生を「教化」し「救済」し「同化」することを指しているのは間違いありません。

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