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4月12日(木) [矛盾について(その618)]

 なぜ衆生を「釣り上げ」、「教化」し、「救済」することは「やくざな」ことなのか。
 「親鸞は弟子一人ももたずさふらふ」に続いて、その理由をこう述べます、「わがはからひにて、ひとに念仏をまうさせさふらはばこそ、弟子にてもさふらはめ、ひとへに弥陀の御もよほしにあづか(り)て念仏まうしさふらふひとを、わが弟子とまうすこと、きはめたる荒涼のことなり。…如来よりたまはりたる信心を、わがものがほにとりかへさんとまうすにや、かへすがへすもあるべからざることなり」と。
 もうここにすべてが言い尽くされています。「わがはからひ」と「如来よりたまはりたる」。「してあげる」のは「わがはからひ」です。それを否定しなければならないのは「如来よりたまはりたる」ものだからです。
 ぼくらは「わがはからひ」がない限り、何ものも手に入らないと考えています。生きていくのに必要なものは、衣食住みなそうでしょう。人からいただく場合でも、いただけるような関係を築いてきたからこそのことです。「情けはひとのためならず」で、世の中「持ちつ持たれつ」なのです。
 さて、そこから、生きていく上で一番肝心なことがらも「わがはからひ」で手に入れなければならないと考えます。仏教ではその一番肝心なものを「安心(あんじん)」といいます。ぼく流に言い換えますと「このまま生きていていい」という思いです。これさえあれば、どんな逆境の中でも、生き抜いていく力が湧き出てきます。しかしこれがなければ、どんなに衣食住に恵まれていても空しい。

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